会話がもたらす功罪
会話不足による衝突
身近な例として、まだ会話ができない喋れない赤ん坊に関して考えてみようと思います。赤ん坊や、まだ喋れない子どもは何をしたとしても、基本的に「赤ん坊のしたこと」「まだ子どもだから」と許されてしまいます。それはその子どもたちに「悪気」「故意」がないことが前提となっているのです。そのため、子どもたちが喋れない、会話ができないとしても何の問題もありません。
では、これが現実社会の大人同士のことであればどうなるでしょうか。会話やコミュニケーションが無く、どちらかが一方的に相手が困ることをすればそこには「悪意」「故意」があるといえるのでしょうか?もちろん、会話もしくは対話があることが望ましいことですが、時としてそういう状況になり得ないことが往々とあります。
それは、まれに確信犯である場合もありますが、その殆どはお互いの相互理解の欠如、コミュニケーションの不足からおこります。※確信犯であった場合のパターンはここでは割愛いたします。
確信犯(確信犯罪)とは、「自分が行うことは良心に照らし合わせて正しく、周囲(社会)や政府の命令、議会の立法こそが間違っていると信じて」行った犯罪である。本人は自らの正当性を確信していることがポイントであり、立法や命令 に違犯(「違反」ではない)しているとの認識を持っているかどうか、あるいは処罰を予想しているかどうかは関係ない。
Wikipedia 確信犯
会話や対話の重要性が叫ばれる理由
当事者同士が会話をせずに、「相手は何て野蛮なことをするんだ」「あなたのやっていることはあまりにも酷い」と声を上げてみても全く意味がありません。それはお互いの意志が通い合っていないからです。会話のできない赤ん坊に対して「お前はなんでご飯をそんなにボロボロこぼすんだ?」と言ってみても、全く意味が無いのと同じです。その声は相手には届いてい(認識されて)いません。
会話の場を持つことによりお互いの考えを理解し、そして解決策を見出していくことが、時間がかかるようで実は最も早い道のりなのです。赤ん坊に対して、「ご飯をこぼすから」と言って「ご飯を取り上げても」何の解決にならないのです。
一般社会や国際社会における会話
会話の必要性は一般社会や国際社会と、その規模が大きくなればなるほど重要性を増し、そして狡猾になってくるのもまた真実です。それがいわゆる「外交は正直なだけでは通用しない」と言われる所以です。
最も単純な手法が、「会話するテーブルを持たない」ということです。一方的に「あいつが酷い」「あいつのせいで国がメチャクチャだ」と口撃するだけで、一向にそれらの問題を解決しようとはしません。
また、会話の場を持ったとしても「はぐらかしたり」、解決に向かう話し合いをしようとしている中で問題を「棚上げに」してしまっては、何の進展もありません。国際社会上、外交上においてはお互いに最も真摯に接することが、国民を代表とする政治家たちのあるべき姿ではないでしょうか。